消しゴム博士へのラブレター

まず前提として、私自身はファック系の創作物*1において、物語内の登場人物はあくまで舞台装置のひとつに過ぎませんよ。という前提で語られている印象を受けています。
その為にキャラクターへ感情移入するのは野暮だというか、構造じゃなくてキャラに萌えるのは禁止というか、大げさに言うと「キャラクターそのものに対して心情的に沿うのは鑑賞態度として正しくない」のかなー……などと内心心配になっていた時期がありました。


その辺りの、己の中でのぐじゃぐじゃが一応の解決をみたのは、消しゴム博士のファーストキス - ファッキンガム殺人事件 - ファック文芸部を読んだ事がひとつの大きなきっかけになっています。
とりあえず語り手は結構まとも(=非キチガイ)なのに話中では物理的精神的社会的にひどい目にも遭わず、それどころか将来の幸せをほんのり匂わされすらしている。という所に目から鱗が落ちる思いをした訳です。


初見で「この語り手は作者から愛されている」という印象を受けたのですが、これってつまりどう言う事なのかと考えると、物語内において『破壊されること』の「無い」立ち位置に有るからなのだと思います。
とはいえ『彼女』がまったく無傷だったかというとそんなことは無くて、記憶喪失という当事者としてはかなりクリティカルな破壊行為が行われてはいます。が、あの掌編の中では彼女自身や他の誰か(何か)がひどく損なわれる事は書かれておらず、私が読みとったなかでは今後起こるという暗示も見受けられませんでした。


あの話の中で『彼女』に対して示されているのはあくまで将来に対する希望です。
とはいえ、アップされた先がg:neoで有る以上、「真っ当な」(≒エモエモしい、あるいは駅前の本屋で平積みされている小説本に良くあるテンプレート構造を持った)お話では無いのは明白だと思います。が、そこで語られている『逆説』が、「将来への希望のありか」だっていう所が新しく感じたというか、「主人公が泣かない事」がエモエモ世界観への右ストレートになるという。普通に読んでも気持ちが良くて、構造面に目を向けてニヤニヤする事もできる一粒で2度美味しい良いものだと思いました。


ぶっちゃけ『彼女』は放り込まれたシチュエーションは特殊だけどキチガイじゃないよね、それどころかむしろ態度としては成熟してるくらいだよね。
悲嘆に暮れてよろよろしてるよりは「生活する事」をきちんと成り立たせている事柄の方が実はずっと重要と言うか。


ここで思い出した。私が件のブックマークコメントで吉本ばななの『アムリタ』の名前を出していたのもその辺りからの連想です。
あれも主人公の女性が記憶喪失になるのですが、惚れた腫れたや泣きの方向には傾かず、割と地に足の付いた話の展開を見せていて、そこが好きなんです。


失ったものに対していつまでも未練を残しちゃいけないよ、この先には面白そうな事が有るよ、という理性的な判断。
自分丸出しで一点突破で色々な物を薙ぎ倒しながらわが道を行く人間*2は魅力的だけれど状況を受け入れて前に進むというまともさを持った人物もまた同じくらい見ていて心地よいものだよなあと、少なくとも私はそう思います。


ところで、寡黙にして「うんたらファーストキス」という映画の存在を知らなかったので、タイトルにある『ファーストキス』とは、語り手とサイトオーナーが将来、幸せな邂逅を果たす(=真実へたどり着く)暗示なのだとばっかり思っていました。先走りだったか!

*1:ここでは(特にアマチュアの手による)実験的性質を帯びた作品程度の意味合い

*2:人はそれをパラノイアと言う